日本人は他人の目線を気にする傾向が強い
日本人はシャイな性格という事で世界では知られているがその認識通り、我々日本人は他人の顔色や目線、何をするにも他人を気にする、という傾向が強いように私は思う。
それについて最近考えていて思ったのが、根底には日本特有の「敬語文化」が絡んでいるのではないかという事だ。敬語文化とは噛み砕いて言えば上下関係が著しい日本文化の隠喩表現のような物だ。上下関係は目上の者と目下の者とで位が別れ立場上では不平等であり、これは一種の従属関係でもある。
目下の者からすれば目上の者は形式的にではあるが絶対的な存在であり、逆らう事はあまり無いだろう。頭を下げ無駄にペコペコする事を良しとし、誠意のない口だけの敬いをするのが当たり前となり、目上の言うことが絶対的なこの日本文化では、目下の者達の主体性や自尊心、そして自信が挫かれていっているのではないかと私は思う。
だからこそ日本人は自分に自信がない為に、世界からはシャイで大人しいと認識されているのではないだろうか。
だから周囲の他人の目線を気にする傾向が強いのではないだろうか。全てが全てそうだとは言わないが、日本人は特に多いと思う。
この憶測は別として、現に私はそうだ。
実際は私だけが過剰にネガティヴ思考なのも含まれてると思うがそこのところはこれを見ている皆様方の判断にお任せする。
ここから先は個人的な例えを出しながら私の鬱憤を晴らしていこうと思う。
まず最初に、日本人は海外の日本に対する反応や感想などを気にし過ぎな気がする。
最近では海外の事を取り扱ったテレビ番組や、ネットでは海外の日本に対する反応を取り集めたまとめサイトが数多く存在する気がしてならない。
勿論、海外でも逆に自国に対する反応などは気になるだろうし日本のような海外反応まとめサイトも存在するだろう。でも日本の海外反応まとめサイトなんかでは有名どころで一つの記事に付き大体500コメぐらい書かれたりするので、それを見るとどうしてもなんだかなぁという気持ちになってしまう。まぁこれは全て曖昧な記憶と見解ですので飽くまで私的疑問の域を超えませんが。
次に、最近になってYouTubeでよく投稿されているような気がする「キチガイ系動画」だ。
(こんな感じのhttps://m.youtube.com/watch?v=8lpCG8kr22I)
こういう動画を見てコメント欄を見ると多くは罵倒雑言で溢れかえっているのだが、中には「キチガイを動画として撮っている投稿者がキチガイ」「いやいや、キチガイはキチガイだろ」みたいな感じで軽い議論してたりするのだが、そんな事よりも私が感じたのが動画内に映し出される殆どの一般人達が、キチガイの言動に対し見て見ぬ振りをして何もしない異様な光景だ。基本的にキチガイを止めるのはその職場の職員だけで、他の人達は清々しい程に何もしないのだ。
だが、中には関係のない一般人でも行動を起こす者はいるのだがそんなのはほんの一握りだというのが現実という物だろう。
それでは海外の場合ではキチガイに遭遇した時、周りはどんな対応をするのか気になったので動画を見つけた。(最初音量でかいので注意)
https://m.youtube.com/watch?v=qtRFJFRD7WE
結果、何も変わらない。海外だったらもっと色々な反応が見れると期待していたのだが何も変わらなかった。ただ、この動画の最後でキチガイが一般人に暴行を加えた瞬間に周囲の人が止めに入るシーンがあったのがそれだけでも、たかがそれだけ、されどそれだけと言ったところだろうか。流石に暴行されれば日本でも誰もが止めに入る事を、これだけはただ切に願うばかりだ。
以上、私の日本に対する見解でした。
自分の価値の選択を
やはり俺は変わる事が出来なかった。どんなに変わりたいと思っても、何も変わる事が出来ない。
でもそれでも、変わる意思を捨てたらそこまでだ。そんな事を思いながら意思を捨てずにいるが、果たしてその意思が実る日はいつになるのだろうか。
もう無理なのかもしれない、変わる事のない甘い思想なのかもしれない
都合のいい作り事で現実の復讐をしていたんだ
私の好きな作品の中に、新世紀エヴァンゲリオンというアニメがある。ジャンルとしてはロボットモノなのだが、厳密にはロボットという媒体を介しての人間の心理描写に重きを置いた人間物語だ。(更に掻い摘めばエヴァンゲリオンはロボットではないのだが)
そして、その中の主人公である碇シンジ(14歳)は、親に捨てられたトラウマからか内向的で気弱い性格の持ち主であり、特に他人との接触や距離感には一歩引いた消極的な立場からの接し方をしている。それは物語終盤に差し掛かるにつれ悪化していき、彼は最終的には人に留まらず世界そのモノに対して心を閉ざしてしまうのだ。
その一連の最中で映し出される主人公の精神世界で、本記事タイトルの一文は登場する。
「都合のいい作り事で、現実の復讐をしていたのね」
都合のいい作り事とは、自分の思いのまま操れる脳内仮想世界。簡潔に言えば妄想だ。
他人との関係ばかりで悩み苦しんできた主人公は、妄想という無理矢理な現実の埋め合わせをして都合のいい様に作り変えていたのかもしれない。
「虚構に逃げて真実を誤魔化していたのね。それは夢じゃない、それはただの埋め合わせよ」
これはその後に続くセリフだ。
主人公が行っている作り事は、夢なんて優しいモノじゃない。
人間は嫌な事が起きた場合、各々によってその対処の仕方は異なる。対処法が分かっている人がいれば、何もしない人、主人公の様にあれこれ考えるだけで実際に行動はしない人、出来ない人など様々だ。
「じゃあ、僕の夢はどこ?」
「それは現実の続き」
「じゃあ、僕の現実はどこ?」
「それは夢の終わりよ」
【夢】
1.
眠っている間に、種々の物事を見聞きすると感ずる現象。
2.
現実がもつ確かさが無いこと。
はかなく、たよりがないこと。
現実を踏まえない甘い期待。
3.
現実のあり方とは別に心に描くもの。
将来実現させたい希望・理想。
【現実】
①
今,現に事実として存在している事柄・状態。
②
現に事実として与えられていること。また,そのもの。
理想に対してその素材や障害となる日常的・物質的なもの。現状。
現に存在し活動するもの。想像・虚構や可能性ではなく,現に成り立っている状態。実際の存在。実在。
③
実現すること。
都合のいい作り事をしても、世界は変わらない。夢と現実も持って生きなければ、自分は変わらない。
「希望なのよ。人は互いに分かり合えるかもしれない、ということの」
「だけどそれは見せ掛けなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。ずっと続くはずないんだ。祈りみたいなものなんだ。いつかは裏切られるんだ……僕を、見捨てるんだ」
「でも、僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは、本当だと思うから」
いよいよ物語が終わりを迎えようとする数分前、主人公は他人のいる世界へ戻る事を決心する。
そして数分後のラストシーンで、主人公は虚構でも作り事でもなく現実で現実の復讐を決行する。
その行動に対して、他人が出したのは肯定と否定。主人公の現実の復讐は未遂とも完遂とも取れるが、実際の所は分からない。
結局、現実とは肯定と否定を繰り返し繰り返され、未遂か完遂かを個人個人が自分で決めていく。
それに尽きるんじゃないかと、私は思う。終劇。
自分と現実での戦争
最近になって、やはり生きるという事は自分以外と戦う事なのだと思い始めた。
ネットで「人生 戦う」「現実 戦う」などのキーワードで検索を掛けても特にこれといったサイトや記事は引っかからず、人生とは現実と戦う事だ的な啓発をしている人はあまり見掛けなかった。飽くまで主観ではあるが。
だから改めて自分の考えをここに書き記そうと思う。人生とは戦いであり、自分と世界との戦争である。
臭い物言いではあるが、これを見てくれている人の中には何となく感じる物がある人もいるはずだ。というか、いてほしい。
人間、常に楽しい思いばかりをしていられるほど単純な生き物ではない。例えば他人と衝突する場面が訪れたり、怪我をしたり、思い通りにいかなかったりと様々なシーンがある。
ちなみに俺が切に感じるのが他人との衝突だ。
なので、ここでは他人との衝突について述べる。
多分、世の中では8割方以上の人が避けては通れないであろうもの。それは”嫌な奴”との遭遇だ。
これは俺みたいに意思の弱い人には、人生における死活問題であり生涯の課題でもあると思う。
嫌な奴というのは自分からすれば所謂敵となる訳だが、意思の弱い人間からすれば敵というよりそれを通り越して恐怖の存在でしかないだろう。
意思の強い人であればそういった嫌な奴は無視をしたり、出来るだけ関わらなかったり、覚悟を持って戦ったりと色々な対処をするのだろうが、意思が弱いとそうもいかない。
戦う事ができないのは勿論の事、無視をしたり関わらなかったりしたとしても、頭の片隅にはいつもそいつの存在があるのだ。
意思が弱いから完全にそいつと決別する事ができない、意思が弱いからそいつと少なからず分かり合えるかもと甘い考えを持ってしまう。
でもそれじゃ駄目なんだ。戦えよ、そいつと。
自分の気持ちを偽って気に入られようとすんな、自分という人間を殺さずにそいつを殺す気構えで生きてみろ。他人の事で悩むって事は、その事で苦しみ思い煩ってるからだ。
何でたかが他人如きで自分が苦しまなきゃいけない、しるかよそんなもん。
自分には戦う勇気も覚悟も気力も自信もない!
で、それがどうした!?
だからって、戦う事を諦めはしねぇぞ!! ガムシャラでも気合でも空元気でもいいから戦うんだよ
現実と、世界と、そして人間と。
と、思うこの頃でした。
そしてやっとでた、答えらしきもの
前回の記事を途中で放り出してから今までの数時間、ずっと自分について考えていた。
そして、やっと答えらしきものが出たのでメモをしておく。
答えらしきもの、それは自分が自分を否定することが自分にとって嫌なことだったんだと気付いた。
今まで俺は、行動する前提として自分が他人に否定、拒絶、嫌われないという条件の元で行動してきた。
他人に拒絶、否定されそうなものは避け、どうすれば他人に嫌われないで済むかという考えを第一に設定していた。
否定され、拒絶され、嫌われる。という否定的な感情を自分に対して向けられないようにし、自分が嫌な思いをしない為だった。
そうして自分が本当にしたい行動を抑え込み、自分の意思や自分自身そのものを否定、拒絶、嫌っていたのだ。
そのことに気付かず、俺は心の根底でずっと嫌な思いをしていたのだという事に気がついた。気がする。
まとめると
嫌な思いをしないように、他人に嫌われない自分を演じ、それによって本来抑え込んでいた本心が、結果的にはストレスになって、ずっと嫌な思いをしてきた。
という大きな大きな空回りをしていたのだ。
メモ
現実と人生と戦う、という事について
最近、自分の人生について本格的に考えるようになった。
人生といっても将来を考えるとかではなく、自身の人生と現実に対する自分について考えてる。
現実ってのは「嫌なことから逃げる」か「逃げださずに戦う」かのどちらかなんだと最近になって思い始め、自分は今まで嫌なことから逃げ出していたのだと気付いた。というより常々思っていた。
それを認め反省し、「逃げださずに戦う」ことを
人生から逃げるのをやめたい
私は極度と軽度の中間辺りの面倒くさがり屋だ。
物凄く曖昧なもので、特にこれといって線引きが決まっている訳ではないが様々な場面でこの衝動的な面倒くさい症候群が出てくる。
線引きが決まっていないのでまさに多種多様な物と言ってもいい。
まぁ例えとしての場面をあげるとすれば、第一に学校だ。学校というのは私からすれば物凄く面倒くさいもので、更に掻い摘めば学校における生活自体が面倒くさいのだ。
学校では各々の人生形成を企てる要として重大な役割があるが、それが私にはアレルギー反応の如く生理的に受け付けにくいのである。
学業が面倒くさいのも一つの要因だが、やはり一番の原因は人間関係だ。この人間関係が、私には
たまらなく面倒くさいものなのである。
この日本には、リア充、ぼっち、キョロ充などといったその場の自分のポジションを呼称する呼び名がある。(最近では陰キャラという呼び名もある)
勿論これはこの地球上の弱肉強食に基づいたものであり、人間も例外なく当てはまる為だ。
特定の場所、空間で長期的に複数の人間と共に生活する場合、必然的に弱肉強食という地球上の摂理に人間も例外なく型をはめられてしまう。
この事をカースト制度と呼び、逃れようのないもの故に大差はあれど人類全てに起こりうる当然の現象だ。
ここまでで何が言いたいのかと言うと、これは教育施設である学校でも起こるという事だ。
長々と語ってきたが、前述の通り日本ではそのカースト階級毎にリア充、ぼっち、キョロ充、陰キャラなどのポジション名をつける。
と、ここまで書いたがさっそく面倒くさくなったのでここまでにする。メモ